感情論的、日記的

極端に不定期更新です。

Facebookはカラオケボックスである

ご挨拶

はじめまして。Tazzoです。
昨年、諸々の諸事情がありつつも、大学院進学を目指して会社を退職しました。
日々勉強しながらも、基本的には絶賛ニート生活中。そんなTazzoです。
かのトップアイドル大島優子と同学年のTazzoです。

さて、自己紹介はこの程度にしましょう。
このブログは「Tazzo's diary」という名前からもわかるように、日記ベースの投稿をしていきます。(追記2015年5月9日:ブログ名を変更しました)
いや、だからと言って、日々の生活記録みたいなモノにはしません。
なんて言うんでしょう、暮らしのなかで想い感じたことを書き綴っていく「覚書」みたいなスタンスになれば、と望んでいます。

かつてはmixiでも似たような投稿をしてたんですが、みなさんご存知のように、あそこまで過疎化してしまいましたし、実際、僕の友人たちもmixiから離れ、TwitterFacebook、LINEの世界と移住してしまいました。
それにmixiでの投稿って、結局のところ友人たち(リアルかバーチャルかは問わず)向けの内容になってしまうので、外部に向けたモノではないんですよね。

このブログがどの程度の方々に読まれるかはわからないけど、少なくとも環境としては外部にオープンな場で発信してみたい。そんな欲望もあって、今回「はてなブログ」を開設しました。
どのくらい継続することができるのか我ながら未知数ですが、細々とやっていきたいと思います。

前口上が長くなってしまいました。
では、本題に入りましょう。


mixiからFacebook

僕の友人たちがmixiからTwitterFacebookへと移住していったことは、すでに書きました。かく言う僕も移住組のひとりです。

mixiFacebookも基本的にはやれることが同じなのに、なぜかみんなFacebookへと移ってしまった。
mixiの流行やブームが去っていった、と言ってしまえば簡単ですが、みんなはFacebookの何に惹かれたのか。

僕は当時使っていたSAMSUNGガラケーFacebookのアプリがプリインストールされていたからとりあえず登録した、という程度のきっかけです。
しかも、2010年の段階ではFacebookを利用している友人がおらず、まだまだmixiの利用率が高いこともあって、まったく使っていませんでした。
ただ翌2011年に映画『ソーシャル・ネットワーク』が公開されたあたりからFacebookの知名度があがり、頻繁に利用はしないもののFacebookに登録した、という人たちが増えてきたように思えます。

僕自身、あの映画を観たことで「これはちゃんと使わないと損だ」と思うようになりました。
ちょうどガラケーからスマホに機種変し、さらに大学卒業の直前というタイミングだったので、卒業式前に行った長崎旅行の写真をスマホ経由で現地からアップしたのが本格的にFacebookを使うようになったきっかけです。
大学を卒業しても、TwitterだけじゃなくFacebookからも友人たちの近況がわかれば、という思いもありました。

いま思えばmixiを利用しはじめたのも高校卒業のタイミングだったので、友人たちと日常的に会えなくなるというシチュエーションが来ると、人はSNSを利用するのかもしれません。


リア充Facebook

さて、それぞれのきっかけでみんながFacebookを使うようになったことで、友人たちがFacebookに日々の生活をアップロードしていくようになりました。

食べた料理の写真、旅行の写真、ペットの写真 etc.etc.

mixiの頃とは違い、やたら写真のアップが目立ちます。
テキストオンリーの投稿をする人はほとんどいない。僕の場合ですけど。
テキストはTwitter、写真はFacebook。そんな使い分けが存在しているのだと思います。

さて、なぜこんなにもFacebookには写真が多いのか。
詳しい議論はすっ飛ばして、僕個人の偏見に満ちたと言っても良い感情論で申し上げると、広い意味での「自慢」をしたいからなのだと思います。

「今日こんなステキなお食事したの」
「この前こんなイカスところに行ってきたの」
「うちのペットこんなに可愛いの」
などなど。

意識的か無意識的かはわかりませんが、人に写真を見せるという行為自体に自慢的要素が含まれているので、Facebookに写真をアップする行為も同様です。

ネタになるようなおもしろ写真もアップされますが、それすらも「こんなおもしろいことしてる俺/私ってどう?」という自己陶酔的な自慢要素があるように思います。
逆に言うと、そのような自慢要素のある写真あるいは話題があるときだけFacebookに投稿しているのかもしれません。

そして、そういうことをさせてしまうのは、Facebookに実装されている「いいね」機能であることは疑いがないでしょう。
ザッカーバーグがどう思っているのかは知りませんが、Facebookは確実にこの「いいね」が押される投稿を奨励しています。
だからこそ、「いいね」を求めた投稿をしてしまう。あたかもmixiで日記を書いたあと、どのくらいの「足跡」が付いたか気にしてしまうかのように。

Twitterはネット廃人のもの。Facebookリア充のもの」という認識が生まれるのも、もちろんこういう事情からのはずです。


良くも悪くも息苦しいFacebook

さて、このように自慢的な投稿にニュースフィードが埋められてしまうと、今度は非自慢的な投稿がしにくい、という心理が働いてきます。

「自慢的な投稿」を、特別なシチュエーションに関する投稿、つまり非日常的な話題の投稿とするならば、「非自慢的な投稿」とは、普段の生活に関する投稿、日常的な投稿のことです。

たとえば「蚊に刺された。かゆくて堪らない」とか「電車の乗り換え間違えた。つらたん」といったような、当たり障りのないもの。
あるいは「憲法改正ってどうなのよ?」とか「社会保障はなんでこんなに年寄り優先なんだよ?」といった政治的社会的な議論。

そういったことを投稿している人ももちろんいるんだろうけど、先述したようにFacebookは「いいね」を奨励するシステムなので、「いいね」を獲得しづらい上記のような投稿は控えてしまう。
まあ、当たり障りのない話題はTwitterに呟いていて、政治的社会的な話題はそもそも投稿しようと思わない、って可能性も大いにあるのですが…。

なにが言いたいかと言うと、みんな「いいね」に縛られすぎて、投稿したいことがあるものの、それに対する「いいね」が期待できないために投稿するのをやめることが多分にしてあるのではないか。
つまり、もはやFacebookは好きなことを気ままに投稿できる場ではないのではないか、ということです。

それが良いことなのか悪いことなのかは判断できませんが(少なくとも僕は違和感を感じています)、とりあえず「息苦しさ」は覚えます。


カラオケと同じ「息苦しさ」

この息苦しさは、まるでカラオケボックスで感じる息苦しさと同じことのように思います。

個人によってカラオケに対するスタンスは違うんでしょうが、とりあえずカラオケでは「その場にいる人たちが盛り上がれる」ことが要求されます。

AKBやゴールデンボンバーなど、みんなが知っている流行曲を歌えば、盛り上がることができます。
またアニメソングしか歌わないとしても、その場にいる人たちがアニメ好きなら盛り上がるでしょう。
逆に、流行曲でみんなノリノリになっているのに誰も知らない曲を入れたり、アゲアゲのムードになっているのにバラードを入れたいしたら、場の空気はシラけてしまいます。

歌いたい曲を歌うのがカラオケの大前提だったはずなのに、単に「自分が歌いたいから」という理由だけで選曲してはならない。そんな暗黙の了解がいつのまにかできてしまっています。
この暗黙の了解こそ「息苦しさ」です。

「ひとりカラオケ」が珍しくない光景になっているのも、この息苦しさから逃げたいという理由もあるのではないでしょうか。


おわりに

このようにカラオケボックスと同じ「息苦しさ」がFacebookにも存在するのではないか、と僕は考えています。

だからと言って、そのような「場の空気を読め」的な息苦しさをなくそうよ!と主張したいわけではありません。
単純に、カラオケとFacebookが似てると思い至り、「じゃあ、その理由は何だ?」と考えたときに出てきた感覚を述べただけです。

最初に書いたように、このブログは「覚書」です。
だから、論理的な手順を踏むわけでもなく、ちゃんとした結論があるわけでもありません。
僕個人の感情に沿ったところで、物事を述べていく。そういうスタンスです。


第1回目のブログとしては些か長文だったかもしれませんが、今回はこれにて。
次回がいつになるかは僕自身わかりませんが、また何か覚え書きたいことがあれば更新します。案外すぐのことかもしれませんがw

それでは。